関所が設置された街「金町」の歴史とは?

シェアする

SNSフォローボタン

古くは「金町郷」

と呼ばれていた「金町」ですが、古利根川沿い鎌倉街道に面した町屋が形成されるなど、下総国香取神宮領の中心地として栄えていました。
その後、どのような由来かはわかりませんが、1300年代には「金町」という地名が用いられるようになったわけですが、「金町屋」や「金町村」といった流れを経てのことのようです。現在の区画としての名称旧来の「南葛飾郡金町」を引き継いでいると考えられます。

多昔から開拓されていた場所

古墳時代には既に拓けていた場所で、古墳時代の遺物は半田稲荷神社、金町浄水場工事現場、その他各所で発見されています。その時代には、かなり多くの集落が散在していたとみられており、たくさんの人たちが住んでいた場所のようです。

金町は重要な役割を担っていた街

飛鳥・奈良時代711年には半田稲荷神社、平安時代1185年には葛西神社が創立され、室町時代1325年の「三浦和田文書」には、下総国金町郷という地名の記述が見られます。
江戸時代初期1612年になると、江戸幕府から水戸道中の要所として「金町松戸御関所」が現在の葛飾区東金町に設置され、1869年に廃止になるまでの間、江戸幕府の防備上の機能を果たしていたようです。
1822年の「駅逓志」には、五街道・四往還のうち、東海道・奥州道中に次いで三番目の交通量のある場所であることや、宿場に常置する伝馬の人数も五街道と同じ数だということが記されており重要な役割を担っていたことがわかります。

幕府が関所を作った理由

江戸幕府が関所を作った場所は、江戸が攻められないための重要な場所で、人や物が出入りすることを取り締まっていました。
葛飾に設けられた「金町松戸関所」は、現在の葛飾橋から約300m上流の江戸川河川敷に存在し、江戸と下総(千葉)、常陸(茨城)、陸奥(東北地方)を行き来する人たちを取り締まっていた場所です。
取り調べや見張りを行う建物が金町に設置され、午前6時から午後6時までは開放されていましたが、その時間以外では通行ができなかった場所です。

様々な制限があった時代

関所を通行する際には通行許可証である「手形」が必要で、通行が許可されると船に乗って江戸川を渡るという流れでした。
一度に多くの敵が江戸を攻撃できないように、さらに船の交通を発展させることを目的として関所を設け、さらに川には橋をかけず、船で渡ることができる場所も制限するなど、色々な制限がなされていた時代です。
なお、利根川と江戸川で幕府が認めた渡し船が存在していたのは16か所だけだったと言われています。

シェアする