葛飾区はもともとどのような土地だった?その歴史をご紹介!

シェアする

SNSフォローボタン

東の下総台地、そして西は武蔵野台地に挟まれた東京低地。葛飾区が位置するのはこの東京低地で、東から江戸川、中川、綾瀬川、荒川が流れているなど河川が集中しているエリアであることが特徴です。

その葛飾はもともとどのような土地だったのか、どのように変化したのかその歴史をご紹介します。

旧石器時代から古墳時代の葛飾区エリア

最終氷期で地球全体が寒冷化していた時代が旧石器時代ですが、葛飾区内では旧石器時代の遺跡は発見されていません。

縄文時代になると気候が温暖化したことで海水面も上昇し、現在より数mも高い状態で奥東京湾と呼ばれる大きな湾を形成した時代です。葛飾区を含む東京低地は海の底に位置していました。

海水面がその後徐々に後退し始め、河川により土砂が海を埋め立てていき、東京低地は再度陸地化したのです。葛飾区柴又河川敷遺跡でも縄文土器の破片が出土しています。

河川がもたらす土砂で弥生時代終わり頃、青戸や柴又の一部が陸化したと考えられているようです。

柴又河川敷遺跡でも弥生時代の土器が完全な形で出土されてはいますし、柴又の古録天東遺跡、青戸の御殿山遺跡でも弥生時代後期のものと思われる土器が出土しています。

古墳時代には河川の氾濫で河道に土砂が堆積するといった状況が繰り返され、周囲より高い自然堤防が形成されたことで、微高地を拠点とした集落が営まれました。

葛飾区内で最古の集落遺跡とは?

青戸に所在する御殿山遺跡が葛飾区内最古の集落遺跡と想定されていましすが、これは1千600年前の古墳時代前期のものと考えられています。

出土品の中には東海や北陸、近畿地方に由来する土器が混ざっていたことで、各地域との交流があったことを物語っています。

奈良・平安時代以降の葛飾区エリア

奈良時代には葛飾区を含む一帯が下総国葛飾郡に編成されました。中央(畿内)と地方を結ぶ道路も整備され、葛飾区が位置する東京低地には東海道が通っていたと考えられています。

室町時代・15世紀中頃には、関東管領上杉氏により青戸に葛西城が築かれましたが、天文7年(1538)、小田原北条氏により葛西城は占拠され、城の再整備が行われ堀の規模も拡張されたのです。

そして天正18年(1590)には豊臣秀吉により小田原北条氏は滅亡したことで、葛西城の中世城としての役目も終わりとなりました。

江戸時代以降の葛飾区エリア

戦乱の世が終わり江戸時代に入ると、葛飾区は武蔵国に再編成されて幕府直轄の農村地となりました。上下之割用水が開削されて、農耕地に灌漑用水を供給していたのです。

葛飾には湖沼が多かったので、鷹狩りに適した土地としても知られており、たびたび幕府将軍が訪れた地だったとされています。実際、葛西城跡地には青戸御殿が造られて、鷹狩りの休息所として利用されていました。

江戸と地方を結ぶ交通網も発達していき、街道や宿場などが整備されたことで水戸佐倉街道も通っていました。金町と松戸間の江戸川河川敷に関所が設置されて、物資の取り締まりも行っていたとされています。

シェアする